
おかあちゃんからのメール![]()
忘れもしない2007年11月19日の夕方、一通のメールがあまり開ける事のないメールボックスに入っていました。それは加藤りつこさんという方からでした。加藤りつこさんは加藤貴光君という青年のお母さん。手紙の内容は僕の曲を聞いて感動したという感謝の言葉のものでした。
にこにこ新聞![]()
僕が一番病んでいた時にサニチルのおせつさんが言ってくれた言葉があります。「なんでテレビ番組やニュース番組はたくさんあるのににこにこになれる幸せなニュースばかり取り上げる番組がないんだろうね」。人が元気に生きて行くために必要なのは凶悪犯罪のニュースばかりではなく各地で頑張っている人や幸せな出来事のニュースのはず。ネットのポッドキャスティングというブログ形式を利用して日本各地の隠れたにこにこなニュースを探しては音声番組にして流す「にこにこ新聞」を始めたのが2006年の12月の事です。
2007年1月17日、いつものようににこにこ新聞のネタをネットで探していると神戸の震災の事だらけでした。その中である人のブログに「親愛なる母上様」〜翼の生えたうしより。という手紙の事が書かれてあるのを見つけました。よく読むとそれは加藤貴光君という震災で命を落とした青年が生前にお母さんに送った手紙でした。
今となってはあまり覚えていないのですが、よっぽどその手紙に感動したのでしょうか。いつのまにか僕はその手紙に曲を付けて、レコーディングまでして、にこにこ新聞にアップしていました。その時まさか彼のお母さんが曲を聞いてくれるとは思ってもいませんでした。むしろ聞いてくれたら勝手に手紙を曲にして謝らなきゃと思っていました。
おかあちゃんとの出会い![]()
加藤りつこさんとのメール交換が始まり、僕が旅に出る準備中だと告げると広島に来て広島から旅に出る事を提案してくれました。どちらにしろ無計画の旅だったので最初は行き先が見つかったくらいの軽い気持ちで広島に行く事を決めました。
茨城のおばちゃんはそんな僕に忠告をしてくれました。一人息子を一瞬のうちになくした母親に会い、その彼の手紙をお前が歌っているという事がどんなに責任の重い事か覚悟しておけと。普段は強く大きなうしとも互角に張り合うおばちゃんが曲を聞いて涙を流したあたりからこの曲の力は感じていましたが、本当の事は分かりませんでした。
事の流れに身を任せ僕は広島に向かいました。
広島へ![]()
実際に会ったお母ちゃんはとても気さくで楽しい人でした。とても笑顔が可愛い素敵なお母さんでした。しかし数日間一緒にいると彼女が今でも「悲しみ」の中で生きている事が分かりました。13年間忘れる事のないあの日の事が毎日蘇りお母ちゃんをとげとげのムチで痛みつけます。泣いているのか、違う世界に行っちゃっているのか。。できる事ならお母ちゃんも死んでうし君と同じ場所にいたい。。そう思ってきた13年。それでも生きてきたのは手紙の存在のおかげだったそうです。
よく聞けば手紙のおかげで今までもたくさんの人との出会いがあったそうです。「あの子が会わせてくれてるんだ」と信じて一つ一つの出会いを大切にして来たそうです。
そして今回の僕との出会いは震災の時期に合わせて各新聞、そして関西テレビのスーパーニュースAnchorという番組で取り上げられました。
僕が勝手に曲を書いて、勝手にネットにアップしただけの事がこんなに大きな事に発展した事に僕は焦っていました。胸を張って「僕がこの曲を作りました」って言う程考えて作ってはいないし(自然にできた曲だから)、人前でこの曲を歌う程、僕の歌はうまくもなく、練習もしていない。そして一番悩んだ事は僕にとってこの曲はまだ見も知らぬこの世にいない青年が書いた手紙に僕が直感的、本能的に曲にしてしまっただけの曲だという事でした。この曲、手紙の持つメッセージと存在する意味を知らずして、テレビの前や客の前で歌う事はとてもとても苦しいものでした。
しかし初めて歌った教会で加藤貴光君の存在と僕の後ろにある十字架が少し重なった瞬間がありました。その意味は分かりませんが少し存在が見えたような気がしました。
そして手探り状態のままライブを重ねて行き加古川の小学生600人の前に立った時にうし君が最終的な答えをくれました。
それは「命」でした。
旅立ちへ![]()
広島、神戸でのコンサート活動はとても充実していて、有意義な物でした。しかし最初の旅の目的を忘れる事はなく、もうその時には敬意をこめて「おかあちゃん」と呼ばさせてもらっていたお母ちゃんにとにかくいっぺん旅に出たいと申し出た所快く承諾してくれ、いったんコンサートのオファーをストップしてもらい、僕は1月25日に本州で一番遠い鹿児島の志布志港にフェリーで向いました。
あまりにも急激な人生の展開に僕自身がついて行けなかったのと、当初の旅の目的(知らない日本を独り旅する)を実行もせずにはいられなかったのでしょう。
今思うのですが、この時はまだ僕は「親愛なる母上様」を歌わされてたのだと思います。この歌の力、そして音楽という物の力に人生を捧げる覚悟ができたのは実はもっと後の話しなんです。
九州の旅(2008.1.25〜)
に続く
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